西サハラでは、「一杯目は人生のように渋く、二杯目は恋のように甘く、三杯目は死のようにやさしい」と言われています
というメモを見つけた。
モロッコでの生活を終えてからもうすぐ1年が経つ。流れるように、飛ぶように。時間をこうして描写するのは何度目だろうか。
ハディさんが言ったんだっけ。敬虔なムスリムのおじさんで、銀行口座開設や車のナンバー申請などを内務省にする現地職員さん。色々と世話になったなあ。ギャグが高度すぎてついていけないし、アイロニックすぎて逆に愛国心と宗教心の塊やんって思ったりすることもあったけれど、この言葉だけはすげえ、って思った。彼がすごいというよりも、ムスリムのこの考え方が、ね。
モロッコ人はティーが大好き。でっかい角砂糖を小ぶりの急須みたいなのに入れて、ミントを水の2倍くらいの堆積分くらいぶっ込んだお茶が、ミントティーだけれど、これがクセになる。あの砂っぽくて乾燥している、太陽は眩しいけれど冷たい空気の下でこれを飲むと、ああ、なるほど、マルハバーモロッコ。これだわ。となる。語彙力がないのではない。ミントティが本当にこんな気分にさせてくれるということを表しているだけである。
オリエンタルな柄の絨毯にあぐらをかいたおじさん。髭が床につくくらい長くて、眉毛が太い。マグリビーであることに誇り高く、クルアーンの教え通り、灼熱の夏であろうと乾燥した冬であろうと、ラマダン月は日中食べ物も水も摂らない。国単位でそんなことが行われているということに、私は驚嘆したんだっけ。
アッラーアクバル。明朝4時か5時くらいに遠くから聞こえるアザーン。学生時代に惚れ込んだこの雰囲気。太陽の光がさしてきて、モスクに向かう人々のざわめきがバルコニーから聞こえてくる。リュック一つで貧乏旅行をした時に、この人間臭い世界がいとおしいと感じた。文章を書くことを教えてくれた瞬間だった。あれから10年は経つだろうか。同じようにこの世界に生きながら、潜ったり息継ぎをしたりして、眺める景色は変わっていく。あくまで、モロッコはずっと遠奥から眺めている心地なのだ。イスラームもダリジャも、その深い歴史ある文化も、浸れば浸るほど私はよそ者な気がしてならなかった。それはでも、不快なわけではなく、むしろそうして眺めていていいんだよと言ってくれたからこそ、そうすることができたのかもしれない。
ティーに話は戻るけれど、この甘い甘いミントティー。最初の数杯はうまい。だが、二杯、三杯と注がれるがまま飲んでいると、やはり甘さがしつこかったりする。とはいえ、年配のモロッコ人達の歯がなかったり、かけていたり、黄ばんでいたりするのはもしかしたらこの砂糖のせいなのではないかという、真っ当な健康問題を議論するのは粋ではない。彼らは彼らの人生を、ティーを飲むように過ごしているのだった。
「一杯目は人生のように渋く、二杯目は恋のように甘く、三杯目は死のようにやさしい」
きっと人生というものは彼らにとっては一部で、その後に神との交信があり、死の向こうにも甘みがあるのだろう。とても摩訶不思議な世界があるものだ。そしてそんな場所に暮らすことができたことは、大変幸運だったのだと、今更ながらに感じるのであった。

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