ずいぶん長い間、書くことをやめていたような気がする。熊本県の、それと言って特徴もない小さな街に引っ越してきた。私はこれまで、海外を渡り歩き、チャンスがあれば旅に出る「根無し草」だった。キャリアによって住む土地を、国を変えることについて全く抵抗がなかった。むしろそれが人生の主軸と思い込んでいた時期さえあった。そんな若い感覚の中にも、突如芽生えるものがあるようだ。そろそろどこかの街に根っこを張りたいと思い始めたのだ。自分自身のことについて、よく知っているようで知らない、31歳になる年のことだ。

これ以上自分のキャリアを優先し続けたら、パートナーとうまくいかない。

それが「移住」、つまり自らの住民票を自らの選択した場所に登録することを考えたきっかけだった。これまで日本とカメルーン、日本とスウェーデン、コスタリカとハンガリー、みたいな遠距離恋愛をしてきた(そしてことごとく失敗に終わった)身にとって、距離はとても重要な問題だった。カメルーン人の元パートナーと結婚を描き婚約までしていたにも関わらず、コロナによって再会を2年以上引き延ばされた私たちは、金も運もない中で、冬のパリでようやく会うことができたが、まるで他人のように、お互いを誤って認識してるような錯覚に陥った。そうしてほどなく、別れた。距離について真剣に考え始めたのは、この頃だったかと思う。やがて日本に暮らしていた時に出会った人と付き合うことになり、決まっていた二年間の海外のキャリアを経て、熊本県への移住を決意した。結婚をするためにキャリアを妥協する、といった気持ちは全くなく、むしろこの「移住」が自分の創作を前に進めるんじゃないかという期待が動機の中に含まれていたように思う。

ずいぶん久しぶりに文章を書いていると、あちらこちらに話が逸れていく。それでも、キーボードを叩いて自分のことについて語ることができる喜びを、今は噛み締めたい。書きたくても書けない時期が、今回は長すぎたように思う。真っ白な画面を前に、カーソルがチカチカしているのを眺めて終わってしまう日、日記に思ったことを綴ろうとしても鉛筆がやけに重いと感じる日。そんな日々を超えて、とある週末の日没に散歩をしているときに、「あるがままを書いてみたい」と思ったのだった。森山大道の『犬の記憶 終章』の文章をリズムが、散歩中に頭の中で踊ったように感じた。それを、模倣したっていいなと。

「移住」の話だった。住んでいる街は、車がなければどこにいくにもかなり不便だ。私の生まれ育った大阪市北区は、あちこちに地下鉄やJRの駅があったし、バスや自転車を使えば不便なくどこへでも行くことができた。海外では運転の練習なんてする機会もなく、まともに車の運転もできないのにハタチで取得した免許の更新だけは欠かさなかったので、完全なペーパードライバーだ。移住してきて8ヶ月だが、いまだに運転をするのは怖い。それでもあまり退屈しないのは、近くに気軽に集まれる同世代がいるからかもしれない。週末にちょくちょく会ったり、飲み会を開いたりする。真剣すぎず程よく気だるい。そんな感じの時間が好きだ。

朝起きて、天気が良かったら家の周りを散歩する。夏は生き生きした緑の田畑を、秋は金色の稲穂を横切りながら歩く。川辺にはさまざまな鳥がやってくる。蜘蛛の巣が雨上がりに濡れていて、焼畑の匂いが風に混じって鼻をつく。それだけで、私は「陽」に傾きすぎて力んだ体をゆるめることができた。

散歩から帰ってきて入れたドリップコーヒーをすすり、洗濯物が風に揺れているのをぼんやり眺めながら、本当は筆を取ったりできれば、と思う。しかし、結局は仕事のことや、今日の買い物リストなんかについて考える時間で終わってしまう。

「書かない」理由はいくらでもあった。平日は仕事でいっぱいいっぱい。新しい場所での生活に慣れる期間。眠りが浅い。今は書くより読みたい。

そして、むしろ、書かなくていい理由しかなかった。

私が何かを書いたとて、書かなかったとて、誰も何も言うまい。だって誰も私の書いたものを読むことはないのだから。 それでも、「書きたい」と思うのは、私の創作をいつか誰かにみてほしいからで、それも「いいですね、あなたの文章」って言われたいからなのである。

だが、私は気づいた。そこに至るにはさまざまな葛藤が必要で、むしろ語ることについてもっともっと深く考えるべきなのだと。現実をもっとじっくり観察し、エッセイストや写真家、建築家やデザイナーなどの創り出すものについて知って、思考することからしか始まらないのだと。

それをすっ飛ばして「いいですね」なんて言われたとて、嬉しくもなんともないだろうと。だから、これは、ようやく創作の匂いがしてきたということで、自分が自分のために書いた駄文なのである。これが最初で最後にならないよう、私は今日から少しずつ、何年もかけて、この世の文章のリズムや、写真の構図について考えて、模倣して、練習して、きっと自分の色のついた創作を生み出せるようになろう。たとえそれをする理由が、特になかったとしても。