「いつも笑顔で綺麗だなあと思う人は、ネガティブな言葉を発しないんだよ。」
ある先輩がそういっていたのを鵜呑みにして、それからずっと悲しいことを言わないようにしてきた。 言霊を信じていたような、それとも悲しくてそもそも言葉にできなかったのかはわからない。
けれどとにかく聞けば誰でも顔をしかめてしまいそうな言葉は全部、避けてきていたんだ。
ああ素敵だな。ああなんて世界ってワクワクするところなんだろ。 自分が口にしてきた言葉は、どこまでも明るかったはずだったのに。
そういう一言一言が、今は上っ面の愛想笑いみたいに虚しく脳裏で響いている。
平和を語る際に、どうしようもなく汚くてえげつない世界を避けて通るなんて無理なんだ。 身近で感じなければ絶対に理解できない格差と差別。 この瞬間もどこかで誰かが泣かなければならないような世界に暮らしていることは紛れもない事実なんだ。
花が咲き誇りハチドリが飛ぶ楽園で、そんな「遠い」悲劇をプレゼンしたところで、壮大な生物多様性に飲み込まれて、春風の吹く国連平和大学の校庭で、ぼんやりとその輪郭がぼやかされてしまうんだ。だからいまだに悪夢と白昼夢の間でふわふわと浮いているような気分。めちゃくちゃな矛盾を感じながら、それでも筆を取って書かずにはいられなかった。
人種差別
誰だって避けたいこの言葉を、私は今日敢えてつかう。 きっと日本人の多くは、なんとなく白人に差別される黒人を思い浮かべるんじゃないかな。
でも、ヘイトスピーチが日本人によって移民の人々に対して行われるように、コスタリカではアフリカ人や他の中南米の人々に対してあからさまな差別が存在する。それは根深くてグロテスクで、とても闇が深い。
今まで私は色々と勉強してきながら、「取り残された人々ーーmarginalized people」という言葉をよく使った。たくさんの論文で使われているこの言葉の本当の意味について、考えることは一度もなかったように思う。
人種差別が生む被害は様々だ。 暴力、貧困、難民、紛争、テロリズム・・・そんな仰々しい言葉を並べると、「おお、なんか世界の遠いところでは大変なことが起こっているんだな」と思うかもしれない。けど、それだけじゃない。働く機会が他の人より少なかったり、薬があれば治る病気でも処置ができなかったり、自国の修士号が他国では紙屑並みの価値しかなかったり、はなっから話を聞いてもらえなかったり、人種差別の被害者は、普通の生活の中で嫌な思いをすることがダントツに多くなるんだ。
カテゴリーを作って自分の居場所を確認するのは人間として自然なことなのかもしれない。 いや、特に人種差別について考える機会がほとんどないのが普通なのかもしれない。