近藤康太郎著『三行で撃つ』という本を開いた。プロのライターであり、猟師である筆者が、文章を人よりも上手く書けるようになるコツを書いている本である。そこには書いていた。「突き抜ける空」「燃えるような紅葉」などのありきたりな言い回しは、ライターになりたいと思うのならば使わないほうがいい、と。

どきりとした。突き抜ける空。そう表現する感じの空だなあ、と、思ったことが度々ある。海外でも、国内でも。つまりあの瞬間、私は考えることをやめていた。それを見破られたかのように。

そして「こんなことでどきりとしてしまう」レベルのライター志望者であるということさえも、なんだか悔しくでダサいと思った。

この本に書かれている一言一句に従っていると、自分の文章は自意識が前に来すぎていないかとか、変なオノマトペは使っていなかったかとか、そういうことを気にし始めるわけで、今の私では何も書けなくなってしまうように思う。

町田康著『俺の文章修行』に書いてある、「同じ本を千回も繰り返して読む」ということ。いざ、私自身がやろうと思うと一体何年かかるだろう。おそらく文章で書かれた、いわゆる指南書は、そのとおりをなぞるのではなく、その「方向」に向かう目安を書いたものだ。谷崎潤一郎著『文章読本』(確か読んだと思う、一部だけ)に書かれたような「いい文章を書きたいなら本を読むべし」的なこととかも含め、「ほうほう、そうやったわ〜」ぐらいで、現実は、なんとなく好きな本を古本屋で手に取って、夢中で読んで、面白かった、でもいいのではないかとも思う。

そういう部分を順繰りしているし、思考停止もするし、楽して書こうともしてしまう私だけれど、それでも小説を書き切りたいし、その先に私の物語を読んでくれる誰かがいてほしいとも願う。これまでの私ならこの続きに「なんと傲慢で無知な私だろう」と書いていたけれど、もう、そのことばは使い古してどこか陳腐になったし、自意識が肥えきった20代前半の感じがこそばゆいので…違う表現を使ってみることにする。

--だから私は、指南書を読みながら、その隙間を、逃げ道を、路地裏を、駆け抜けていきたいのである。

うーん…これでは意味が伝わらない。いったい何を書いているのだろう私は。

そもそも読んでいる本の感想から、自分の考えや迷いに脱線し、どことなく支離滅裂になっているのではないか。

そもそも、これは誰かに見せる文章なのか、否、これは独り言であり、特段どこかに載るような代物でもない。

頭の中で、文豪になりきっているつもりで、ちょっと調子に乗って書いた文章だ。あるいは、文章でもない、何か、落書きのようなものだ。

書くことは生きること。それを感じている限り、私はきっとこれからも書き手を目指し続ける。

陳腐な言葉を使っていたとしても、観察を怠っていたとしても、先がない文章だと言われたとしても、「知らんけど」としらばっくれてやる。

だって生きている限り、私は書きたいのだ。

指南書は読みます。けれどその先のことは、どうか、放っておいてください。