時折、自我を制するリミッターのようなものを外して、自身を大っぴらにしてしまいたいと感じる。仕事をするときの顔、人間関係を円滑にするための笑顔、外国でうまくやっていくためのある程度のコミュニケーション力。どれも自分の顔でありながら、全部ではない。たまたま突き出している氷山の一角に過ぎない。だから、普段は見せない自分というものを見つけるためには、潜る必要があるわけだ。その手段が飲酒であり、どのくらい潜るかは日によるし、タイミングにもよる。とにかくそんな理由から、稀に、無性に強く、潜りたいと感じることがある。

酒を飲みたい気分だ。

と、思う時がその合図である。

父方の祖父は上戸で、死ぬまで、毎晩のように焼酎をストレートで何倍も飲んでいた。無口で厳しそうなその顔は、まるでアルコールを摂取しているようには見えない。多くの人が酒によって顔を赤らめ、ふわりとした気持ちよさの中でいつもより少しだけ、奥にしまってある「自分」を取り出すのに、祖父はそんなそぶりは一切見せず、飲むだけ飲んで、もくもくと煙草をふかして、22時には眠った。

祖父の上戸の血は、若干薄まってはいるものの、私の体内に確かに流れている。だからよっぽど飲まなければ酩酊はしないわけだが、私は時々、奥にしまってある「自分」を取り出すために、酩酊したいと感じることがあるのだ。

酒によって思考は鈍り、判断力は低下すると言われている。しかし、普段はぴしゃりと閉ざされている扉が開き、風が通り過ぎるほどにはスペースが生まれ、私はそこで「自分」を見つける。音楽が溶けるように崩壊し、文字が稚魚のように空中を泳いでいる。闇夜を照らす街灯が花火のようにチリチリと世界を燃やしている。そして突然、誰かに会いたくなったりする。

必ずしも酩酊が良い結果を生むわけではない。翌日の不快感によって、何度となく昨日の自分の行為を悔いてきた。顔の皮膚が張っていて、体全体が浮腫んでいる感覚がある。頭が痛くて何もする気が起きない。本を読んでも眠気で集中できず、腹が減ってもキッチンに立つ意欲が湧かない。喉が渇いて大量に水を欲する。不快感が和らぐまで、少しずつアルコールが体内から抜けるのを待つしかない。

それでも私は潜っている時に見えるものや聞こえるものが、どうしてあれほど特別に感じるのか書かずにはいられない。何度も馬鹿みたいに同じように酒を過剰摂取し、翌日に後悔することを繰り返してしまう理由は、崩壊と爆発を身体中で感じ、混沌を自覚できるからなのかもしれない。