自分の描くフリーハンドの直線が、全くまっすぐじゃないことを知っている。

大雑把、不器用、そんなふうに頭の中で私は私にレッテルを貼る。それは外的環境の中に反響して、他人から遠回しな言葉で返ってくる。刃のついたブーメランを彼方に放り投げたのに、自分に帰ってきて胸を突き刺すのだ。自分を痛めつけるのはいつも自分である。

他人の引く線はとても美しく見える。見ている世界は全く私のものとは違っていて新鮮。 私のようにブサイクで歪んだ線を引いたりしない。そんなふうに感じると胸の部分がいつもキリキリする。まるで自分が責められているかのような。

誰に何を言われたでもなく、私は自分の中でまっすぐな線を引くことが正義で、正解で、いい事であると決めつけていた。もしかするとずっと昔小さい時にそんなふうに信じ込むきっかけがあったのかもしれない。なかったのかもしれない。

建築現場の職人さんが、とっても長い折りたたみの物差しを使って木材の上に綺麗な平行の線を引く。飛行機の滑らかな曲線は一体どうやって引いたんだろう。同じ人なのにどうしてここまで違うんだろうか?えんぴつに魔法でもかかっているんだろうか。

何はともあれ、私は職人さんに憧れる。スッと凛々しいまっすぐな線が引ける人がうらやましくって、そう言う人を前にするとゾワゾワする。嫉妬という言葉には女という字が二つもある。日本語は意地悪だ。

綺麗な線で描かれた絵は、目を奪われる。惹かれて、またゾワゾワする。 好きと嫌いは紙一重。だからもしかすると嫉妬して嫌いになってしまっているのかもしれないけれど、それはとても美しいのだ。

私は自分の両手を見つめる。何度引いても真っ直ぐに引けない。紙の切れ端と平行な直線。水平線のような、地平線のようなあんな線。指が震える。無理なのです。不器用だから無理なのです。

そうして私は無理だ無理だと頭の中でしきりにつぶやいて、それに飽きると言い訳を始めるのです。そうなんです。昔から不器用で、そういうことは出来ないんです。

出来ないことがたくさんある。左右が瞬時にわからないし、裁縫やアイロンも何度丁寧にしようと思ってもうまく出来ない。野菜を均等に切ることも、パスタを小皿に均等に取り分けることも。出来ないんです。しょうがないんです。ワハハ。そう言ってゾワゾワは薄れていく。他人が難なくこなす私の出来ないことが、自分にとって無関心になっていくから。

それでよかったのかな?

出来ないことは悪いことではないと思う。できる人は単純にすごいと思う。 できる人を尊敬しながら、嫉妬することは悪いことなのだろうか?多分、体力を使うことなのだとは思う。人を羨むとエネルギーが消費されるだろうから。ああ、この人はそつなくこなすなあ。私はそういうタイプじゃないし。無関心、無関心。ってそれでよかったのかな。 なんだか腑に落ちないまま今日もうちに帰る。

ある日、陶芸を習い始めた友人が言った。あなたもアートが好きでしょ?よかったら一緒にやろうよ。 私は何も考えずに反射で答えた。いや、私細かい作業苦手だし、陶芸なんて壺の形さえ作れないよ。 すると彼女はにこりと笑っていった。 やってみないとわからないでしょ?

出来ないと思い込んでいることの多くは、練習したらできることなのに、大人になるとそれを忘れてしまう。やろうという気持ちは、エネルギーを消費するから、どんどんやりたいリストに載せられるものの数は減っていく。30歳になると10歳の頃は向き不向きなど考えずに懸命にやってきた持久走とか組体操とかお絵描きとか虫取りみたいなものをやろうとも思わなくなる。やる機会がないと説明してもいいかもしれないけれど。20歳の頃は0から外国語を勉強して仕事で使えるまで達成することができたけれど、今になるとなかなか新しい言語をビジネスレベルにまで発展させることに対して、重い腰が上がらない。重い腰はそのうち鉛みたいに固まって、お尻から生えた根っこが地面にしっかり張り付いて、立てなくなっちゃうのかもしれないなあ。

それで私は直線が引けない毎日に、言い訳をしている自分に、うーん?と思うのだった。 彼女がいった、やってみないとわからないでしょ? 彼女は50代だ。年齢で区切ってぐちぐちと考えていることすら、なんか違う気がした。

人に振る舞えるほどの料理はできない? 見せられるほどの絵は描けない? 素敵だと思う文章は書けない?

誰が決めたんですか。やってみないとわからないでしょ?

彼女はこれからもずっと、言い訳がましい私を引っ叩いて、鼓舞してくれるのだと思う。 直線を引けないことは悪いことではないが、直線を引いている他人を羨むことも悪いことではないが、直線を引けないことを言い訳して、完全に克服を諦めるのはなんか違う、と言いたかった。そんな駄文である。